みなさんは、今治城の本丸跡、天守のとなりにある神社をご存知でしょうか。
神社の名前は「吹揚(ふきあげ)神社」といいます。
今治城の別名「吹揚城」から名付けられました。
現在の吹揚神社には、今治城主であった藤堂高虎と久松定房も祀られています。
江戸時代の今治のランドマークであった城の名前が付き、当時の統治者である今治城主が祀られる吹揚神社ですが、その始まりは江戸時代……ではなく武士の世が終わった後の明治時代でした。
今回は明治時代のお話、吹揚神社のはじまりについてご紹介します。
吹揚神社のはじまりは明治5年(1872)。
江戸時代に城下にあった4社の合祀社殿が今治城本丸跡に造営されたことにはじまります。
合祀されたのは、蔵敷八幡宮、神明宮、厳島宮、中蛭子宮です。
これらの神社がどう選ばれたのかは、歴史資料からその一端をうかがい知ることができます。
(明治5年)「御城地へ寄候御社 覚」 (『申歳記録』今治郷土史編さん委員会編『今治郷土史 資料編近世3』今治市1987年993頁所収) |
これは、大浜村(現今治市大浜町~小浦町)の村政記録の一部分です。
今治城跡に移す神社の候補を知ることができます。
明治5年3月の記事には、神明宮・蔵敷八幡宮・厳島神社・夷宮が合祀されることが見えます。
また、明神社・伊予熊社・天神社も候補であったものの、「村方不服不寄」つまり、神社のある地域住民の反対などを理由に城跡には移されませんでした。
このように多くの候補が立てられたなかで、最終的には4社が選ばれて今治城本丸跡に移され、「吹揚神社」となったのです。
4社が城跡に移された明確な理由は、現在のところわかっていませんが、今治藩主の氏神とされる、飢饉の度に藩の命を受けて雨乞いの祈祷を行うなど、いずれも江戸時代を通じて今治藩との関係が深い神社でした。
学芸員M