今治藩ゆかりの史跡を紹介するシリーズ、第2回目は前回の今治藩主の墓でも少し触れました松源院を紹介したいと思います。
松源院は、浄土宗の寺で今治藩主久松松平家の今治(国元)における菩提寺になります。ここには歴代藩主の位牌が祀られ、境内の墓所には主に藩主の庶子達(側室から生まれた子ども達)が葬られていました。
創建は、明暦2(1656)年。寺の名前は初代藩主・松平定房の母親の法名からとったと云われています。
松源院に藩主が葬られる事はありませんでしたが、代々の藩主の位牌が祀られた菩提寺という関係から、格式の高い寺として藩から手厚い保護を受けていました。
また、一部の今治藩士の墓も同じく松源院や、その塔頭である永寿院・常照院に設けられており、まさに今治藩にとっては非常に関係の深い寺であったといえるでしょう。
さて、松源院は、今治城下の北側に設けられた寺町(藩が寺院を集めて作った地区)の一角にありました。現在の住所でいうと今治市風早町4丁目に当たりますが、残念ながらその痕跡は残されていません。
写真から見てもわかるように現在、松源院があった場所は駐車場や住宅地になっています。
これは、明治2(1869)年に藩主である久松家(前年に松平姓から久松姓に復姓)が、家の宗教を浄土宗から神道へ改宗した事に伴い廃寺となってしまったためです。
久松家がこの時期に神道へ改宗した明確な理由はわかりませんが、朝廷に対する配慮ではなかったかと推測されます。
その後、松源院跡地は近代の今治において特産品となった綿ネルを製造する工場や材木工場等に転用されました。
以上のように今治藩主の菩提寺として大いに栄えたであろう松源院は、現在その痕跡を地上に残していません。
唯一、当時を偲ばせるものとしては、松源院の本尊であった阿弥陀如来座像がすぐ近くの正法寺に残されています。
この阿弥陀如来坐像は、松源院が廃寺になる際に、正法寺が元々松源院の住職の隠居寺であった関係で引き取ったと云われています。
寺町で最大の規模を誇りながらも明治時代初期に姿を消した松源院。
今ではその面影を探すのは難しいですが、周辺は今でも多くの寺院が立ち並んでおり、城下町のかつての風情を偲ぶ事が出来る数少ない地域です。
今治城 伊津見
松源院は、浄土宗の寺で今治藩主久松松平家の今治(国元)における菩提寺になります。ここには歴代藩主の位牌が祀られ、境内の墓所には主に藩主の庶子達(側室から生まれた子ども達)が葬られていました。
創建は、明暦2(1656)年。寺の名前は初代藩主・松平定房の母親の法名からとったと云われています。
松源院に藩主が葬られる事はありませんでしたが、代々の藩主の位牌が祀られた菩提寺という関係から、格式の高い寺として藩から手厚い保護を受けていました。
また、一部の今治藩士の墓も同じく松源院や、その塔頭である永寿院・常照院に設けられており、まさに今治藩にとっては非常に関係の深い寺であったといえるでしょう。
さて、松源院は、今治城下の北側に設けられた寺町(藩が寺院を集めて作った地区)の一角にありました。現在の住所でいうと今治市風早町4丁目に当たりますが、残念ながらその痕跡は残されていません。
松源院跡地。現在は駐車場や住宅地になっています。 |
写真から見てもわかるように現在、松源院があった場所は駐車場や住宅地になっています。
これは、明治2(1869)年に藩主である久松家(前年に松平姓から久松姓に復姓)が、家の宗教を浄土宗から神道へ改宗した事に伴い廃寺となってしまったためです。
久松家がこの時期に神道へ改宗した明確な理由はわかりませんが、朝廷に対する配慮ではなかったかと推測されます。
その後、松源院跡地は近代の今治において特産品となった綿ネルを製造する工場や材木工場等に転用されました。
以上のように今治藩主の菩提寺として大いに栄えたであろう松源院は、現在その痕跡を地上に残していません。
唯一、当時を偲ばせるものとしては、松源院の本尊であった阿弥陀如来座像がすぐ近くの正法寺に残されています。
正法寺の本尊である阿弥陀如来座像。 かつては松源院の本尊でした。 |
この阿弥陀如来坐像は、松源院が廃寺になる際に、正法寺が元々松源院の住職の隠居寺であった関係で引き取ったと云われています。
寺町で最大の規模を誇りながらも明治時代初期に姿を消した松源院。
今ではその面影を探すのは難しいですが、周辺は今でも多くの寺院が立ち並んでおり、城下町のかつての風情を偲ぶ事が出来る数少ない地域です。
今治城 伊津見