今治藩ゆかりの史跡を紹介するシリーズ、4回目に取り上げるのは松源院・法華寺と同じく今治城下の寺町にある大雄寺です。
大雄寺の山門 |
関ヶ原合戦後、藤堂高虎が今治地域を治める事になると、高虎の養子である高吉が、実父・丹羽長秀(織田信長重臣)と実母の供養のため、大雄寺を法界寺村から寺町の現在地に移しました。
藤堂時代の大雄寺の様子はよくわかっていませんが、藤堂高吉の実の両親を弔うための寺院として、高吉から手厚い保護を受けていたのではないでしょうか。
大雄寺の境内には、藤堂家ゆかりのものとされる供養塔が今も残っています。
藤堂家ゆかりのものとされる供養塔 |
寛永12(1635)年、藤堂高吉が伊賀国名張(三重県名張市)に転封となると、入れ替わりに伊勢国長島(三重県桑名市)から徳川家康の甥にあたる松平定房(久松松平家)が3万石で今治に入ります。
これに伴い、大雄寺は藤堂氏の庇護から離れてしまいますが、今度は藩主・定房に従ってきた筆頭家老・久松長政(1564~1657)が亡くなった際、大雄寺に葬られた事から以後は家老・久松家(1000石)の菩提寺として位置付けられるようになりました。
今治藩で筆頭家老を務めた久松長政の墓(奥)。 空襲や芸予地震の影響で、損傷が目立ちますが、 筆頭家老の墓にふさわしい巨大な宝篋印塔です。 |
久松長政の巨大な墓の前には、7代当主久松清儀(1760~1812)の墓があります。
7代当主久松清儀の墓 |
この写真ではわかりづらいですが、側面には 「久松彦兵衛清儀」と刻まれています。 |
今治藩の筆頭家老を代々勤めた久松家ですが、5代当主長孝が不祥事を起こした事により一時的に失脚してしまいます。
孫の清儀の代になってから削られた石高も300石まで回復し、準家老的な立場までなんとか復権を果たしました。
残念ながら現在久松家の墓は初代の長政と7代の清儀の2人しか残されていませんが、同じ当主でも墓石の大きさの違いから久松家の栄枯盛衰がうかがえます。
なお、大雄寺は久松家だけではなく、上野家(150石)や深谷家(130石)といった給人と呼ばれた上級家臣の多くも菩提寺としており、各家の墓が今も立ち並んでいます。
今治城 伊津見