もう3月なのにまだまだ寒い日が続いておりますが、皆さんはいかがお過ごしでしょうか。
さて、本日のブログの内容は今治藩主の久松松平家の事について。
実は、今治城主についてもっとも有名なのは築城者である藤堂高虎なのですが、藤堂家が伊勢国(三重県)に転封された後は、誰が今治城主だったかについては実はほとんど知られてないのではないでしょうか…
1635(寛永11)年に藤堂氏の次に今治に入ってきたのは、久松松平家の松平定房でした。
この家は、徳川将軍家とはかなり深い関係を持っておりまして、定房の父親である松平定勝は、なんと徳川家康の父親違いの弟!
つまり家康と定勝は同じ母親から生まれているんですね。(母親の名前は於大の方)
家康の父親違いの弟、松平定勝 |
そうした血縁関係もあって、もともと久松姓だった定勝は、家康から徳川一門の証として松平姓をもらい、松平定勝と名乗った訳です。
徳川家と親戚関係になった久松松平家は、その後江戸幕府内でも重く用いられるようになり、幕府を守るための譜代大名として全国各地へと送り込まれます。
特に四国には、松山に定勝の次男の定行が、そしてここ今治には五男の定房がそれぞれ入ってきていますが、これは幕府が西日本の大名達に対して睨みを効かすためでした。
(ちなみに定行・定房兄弟は家康から見たら甥)
定勝の5男定房着用の甲冑 |
この松平定房が今治城に入ってから明治時代の廃藩置県まで約230年間、今治城は久松松平氏の居城であり続けました。
定房本人も先述した血縁関係に加えて優秀な人物だったようで江戸幕府から深く信頼を受けていたようです。
そうした定房の事績や、その後の子孫や一族の事についても紹介していこうと思いますが、それはまた次回の更新にしたいと思います…
学芸員 伊津見