全国的にようやく暖かくなってきた影響で、最近今治城では城内の桜が少しずつ開花してきております。いよいよ待ちに待った春が到来してきたという感じです。
さて、私、伊津見は先月末に出張で東京に行って参りました。
今治城では、現在、今治藩関係の史料調査を行っておりますが、必ずしも史料は今治市内に残っているわけではありません。今治市外、或いは愛媛県外に存在するケースもあり、それらの調査のため遠方に出張する事もあります。
今回は、東京在住の今治藩士の末裔の方が所蔵されている史料の調査と、今治藩主久松松平家の菩提寺である霊厳寺への訪問が目的の出張でした。
本記事では、この霊厳寺訪問について紹介したいと思います。
霊厳寺境内。昔はもっと広大な敷地を誇ったそうです。 |
霊巌寺は、東京都江東区白河に位置する浄土宗寺院です。
1624(寛永元年)に霊巌上人によって日本橋に創建されましたが、1657(明暦3)年の明暦の大火によって焼失した後、現在地に移転。
江戸時代を通じて浄土宗の僧侶を養成する檀林(学校)の1つでもあった事から、大いに栄えていたと云われています。
そんな霊厳寺ですが、複数の大名家の菩提寺という側面も持っていました。
具体的には、近江国膳所藩主(滋賀県大津市)本多家や、伊勢国桑名藩主(三重県桑名市)松平家が該当します。
そして…我が今治藩主久松松平家もここ霊厳寺を菩提寺としています。
この墓石が今治藩主久松松平家の墓です。
左右の石灯篭には家紋の星梅鉢が見られます。 |
巨大な五輪塔で、非常に立派な墓石です。
ちなみに歴代藩主10人のうち江戸で亡くなった7名は霊厳寺に、今治で亡くなった3名は今治の国分山墓所にそれぞれ葬られています。
当時は、遺体の輸送にも現代と違って手間がかかるため、江戸で亡くなった藩主は、今治ではなく江戸に葬るように決められていたのではないでしょうか。(その辺の基準は史料に残されていないためよくわかっていません…)
また、霊厳寺には江戸住まいであった歴代藩主の正室や、幼くして亡くなった子ども達の墓もあり、数十以上にも及ぶ墓石が林立していたそうです。
しかし、1923(大正11)年の関東大震災によって霊巌寺と共に久松松平家の墓石群も壊滅。
震災復興の過程で、広大な同家の墓所は当時の東京市(現東京都)からの要請で整理縮小する事となったため、残っていた2代藩主松平定時の墓石(上記写真の墓)に、それ以外の歴代藩主やその家族を全て合葬したとの事。
表面には「嶺香院殿実誉体安恵相大居士」の文字が。
2代藩主松平定時の戒名です。 |
このため、今治藩主で現存している墓石は、今治に残る初代定房・3代定陳・4代定基と、残りの藩主やその家族を合葬した2代定時の4人しか残っていないとされていました。
ところが、近年になって霊巌寺近くで行われた地下鉄大江戸線の建設工事の際に、大名家の墓石の一部と思われる部材がいくつか発見され、霊巌寺ではこれらを引き取って境内の隅に安置していました。とはいえ、当時はこれらの墓石が誰のものかはよくわからなかったそうです。
今回住職さんの案内で、この墓石の部材群を調査させてもらったところ、そのうちの1つは、なんと第7代今治藩主松平定剛の墓石の一部である事が判明!
これが今回の出張で大きな収穫となりました。
これが7代藩主定剛の墓石の一部です。 上部には花弁があしらわれています。 |
表面には「豫州今治城主 松平壱岐守源定剛」の文字が。
これが7代藩主定剛の墓石の一部である事の決め手になりました。
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一部とはいえ、5人目の藩主の墓石が残っていたという事実が確認出来たのは、非常に喜ばしい事であります。
また、今治から遠く離れた東京で「豫洲今治城」の文字を見て感慨深いものがありましたし、今回の調査で確認出来た内容に関しては、近いうちに今治城の天守閣内の展示にも生かしていきたいところですね。
当日は、雨が降る中での霊巌寺訪問でしたが、久松家末裔の久松定順さんにも同行して頂き、住職さんとも初めてお会いする事が出来ました。
お忙しい中、お付き合い頂きましたお二方には感謝申し上げます。
今治城 伊津見