こんにちは。
先月、藤堂高虎公ゆかりの地・三重県津市から観光ポスターが届きました。
図柄は、津城跡の公園内に建つ、藤堂高虎公の騎馬像です。
こんにちは。
先月、藤堂高虎公ゆかりの地・三重県津市から観光ポスターが届きました。
図柄は、津城跡の公園内に建つ、藤堂高虎公の騎馬像です。
こんにちは。
これまで、このブログにおいて、3回にわたって今治城の石のふしぎについてお伝えしてきました。
1.今治城の石に、何か付いています。 #おうちでバリミュ (2021年4月26日)
☞https://imabarijo.blogspot.com/2021/04/blog-post_26.html
2.今治城の石のふしぎ ① (2021年7月28日)
☞https://imabarijo.blogspot.com/2021/07/blog-post_28.html
3.今治城の石のふしぎ ② 今治城の石はどこから運んだの? (2021年8月3日)
☞https://imabarijo.blogspot.com/2021/08/blog-post.html
「今治城の石垣には、貝殻(かいがら)が付いている石がたくさんある」というふしぎについて、その理由を考えてきました。
前回のブログ(2021年8月3日付)では、
今治城の石垣には、花崗岩(かこうがん)、ついで大理石(だいりせき)が多く使われていて、
これらの石は、瀬戸内海の大三島(おおみしま)、小大下島(こおげじま)、岡村島(おかむらじま)辺りで切り出され、海を渡って運ばれてきた可能性が高いと紹介しました。
![]() |
今治城と、大三島・小大下島・岡村島の場所 ※朱線で囲っています |
このことは、
「今治城の石垣には、貝殻(かいがら)が付いている石がたくさんある」ことの、
まさに一番の理由だと思います。島の岩石を切り出す時、
運びやすさを考えて、海近くにある岩石を優先的に切り出したのだと思います。
岩石は海水に浸っていたために、海の貝が付いていて、そのような岩石が切り出されて運ばれたものと思われます。
運ぶ途中に石を海際に置いていた時に、貝がひっついた場合もあるかもしれません。
・・・これが、現在考えられる中で、一番可能性が高い理由です。
・・・ついに、答えにたどり着きました!!
(遅くなってごめんない)
でも、何でわざわざ、島から海を渡って運んだの?
もっと近くの、陸地から運べば良かったんじゃないの?
・・・という疑問が湧くかもしれません。
その答えは、今治城の立地と、船の輸送能力が関わっていると思っています。
下の写真をご覧ください。
![]() |
海に接する今治城(手前) 石を切り出した候補地の大三島(朱字)をはじめ、島々とは海でつながっている。 |
今治城は、海に接して造られています。
現在の今治城の四方は市街地化されていますが、昔は城の一部でした。
現在の今治港は、かつての城内の港(=舟入。ふないり)の位置にあたります。
海に接していたために、海を利用して物を運ぶと、とても便利でした。
水には浮力があるために、たくさんの重い物でも船や筏(いかだ)に積むことができ、かつ、一度に運ぶことができるからです。
現在でも、大量の物資を運ぶときには、タンカーやコンテナ船などの大きな船が使われます。
それと同じです。
今治城の立地を踏まえて石の集め方を考えた時、
「海を利用して石を運んだ方が便利」と判断した可能性は大きいと思います。
実は、今回お話ししたことと非常に関わりの深い内容の昔話が、今治地方に伝わっているのでご紹介します。
![]() |
今治城の石垣づくりに関わる昔話。 ※今治城の自然科学館にパネル展示しています。 |
いかがですか。
石を集めるための「賢さ」がとても面白く、この話の肝(きも)なのですが、
ここでは、「石を船で運んでくる」という前提になっているところに注目してください。
これは昔話なので、事実がそうだったと断定することはできません。
しかし、実際に今治城の石は海を渡って船で運ばれた事実があり、その事実を基にして昔話が作られた可能性は大いにあると思います。
以上、全4回にわたって、今治城の石のふしぎを考えてきました。
「今治城の石垣には、貝殻(かいがら)が付いている石がたくさんある」
このふしぎには、今治地域の自然環境や、城づくりの方法が深く関わっていたと思います。
色々な話が関わってくる、とてもおもしろいトピックなのでした。
興味を持っていただけたら幸いです。
こんにちは。
「今治城の石のふしぎ」について、前回(7月28日付)のつづきをお伝えします。
実はこの「今治城の石のふしぎ」シリーズ、全3回を計画していまして、今回は第2回目です。
前回のブログの最後に、
今治城の石のふしぎについて、
「なぜ、今治城の石垣(いしがき)の石は、花崗岩(かこうがん)が大半を占めていて、2番目に多いのが大理石(だいりせき)なのでしょうか?」
と問いかけました。
👉https://imabarijo.blogspot.com/2021/07/blog-post_28.html
その答えは、
一般的なお城の造り方が大きく関わっていると思っています。
お城の石垣には、大きな石がたくさん使われています。
今治城の山里門手前の石垣 |
では、これらの石は、どこから運ばれてきたのでしょうか?
ヒントとして、問い方を変えてみます。
あなたがお殿さまで、お城を造ろうとする時、たくさんの大きな石をどこから運んでこようと思いますか?
・・・お城の近くで、大きな石を取りやすいところから取って運びたい!!・・・とは思いませんか?
そう思ったあなたは、怠け者のお殿さまではありません。
これが、お城を築く時の普通の考え方なのです。
遠くの、取りにくいところの石を運ぶよりも、近くで取りやすい石を運ぶ方が、効率的だからです。
一般的に、石垣の石は、お城の建っている地域でよく取れる石が多く使われる傾向があります。
少し難しい図ですが、今治周辺地域の地質(ちしつ。その土地の土や石の性質のこと)の地図を見てみます。
![]() |
今治周辺地域の地質図 榊原正幸「今治城石垣の石材について」(『今治史談』合併号13,2007年)より |
地質の種類ごとに、点、線、記号で模様が付いています。
「★今治城」の周辺に分布する地質に注目します。
図の左側の類例で、赤の下線を引いた地質が多く分布しています。
「・・花こう・・」は花崗岩の一種です。
「・・トーナル・・」も、広くは花崗岩の一種です。
つまり、花崗岩が多く分布していることがわかります。
今治城の石垣の石に、花崗岩がとても多く使われている理由は、この地域では花崗岩が一番多く、一番取りやすいからなのです。
みなさんも、お近くのお城の石垣にどんな種類の石が多く使われているか、調べてみてはいかがでしょうか。
きっと、お城のある地域でとてもよく取れる岩石が使われているのではないかと思います。
では、さらに細かく。
今治城の花崗岩は、今治地域のどこから切り出されたのでしょうか?
残念ながら、当時の石切り場の遺跡や、どこから運んだかを記した史料が見つかっていないため、確実なことはわかりません。
しかし石の成分を細かく調べると、瀬戸内海の大三島(おおみしま)の花崗岩とよく似ていることが指摘されており、ここから切り出された可能性があります。
大三島の位置は、上の図で黄色の線で囲っています。
今治城最大の石「勘兵衛石(かんべえいし)」も花崗岩。 どこから来たのでしょうか? 大三島? |
そして、今治城で花崗岩の次に多い大理石(だいりせき)。
貝殻の付いている大理石。
今治周辺地域でどこに分布しているかと探すと、
同じく大三島と、その西どなりの大下島(おおげしま)、小大下島(こおげしま)、岡村島(おかむらじま)に「領家変成岩類(りょうけへんせいがんるい)」の分布が認められます。
上の図の類例で、青色の下線を引いた模様の分布です。
今治周辺地域では、花崗岩類の次くらいに広く分布している地質です。
この領家変成岩類に、大理石が含まれています。
そして特に大三島、小大下島、岡村島では、海岸またはその近くに大理石が露出しており、特に切り出しやすい思われるのが、小大下島と大三島とのことです。
これらの島から、今治城の大理石はここから切り出された可能性があります。
※上の図で黄色の線で囲っている島です。
小大下島では、約50年前まで石灰石(せっかいせき。大理石を含む)が採掘されていて、その跡も残っています。
これらの大理石は、小大下島や大三島辺りから来たのかもしれません。 |
つまり、今治城の石垣の石は、
この地域で一番取りやすい岩石を使用しており、
花崗岩は瀬戸内海の大三島、
大理石は、同じく大三島や、小大下島、岡村島の辺りから、
海を渡って運ばれてきた可能性が高いとされているのです。
一番最初(4月26日のブログ)の「今治城の石垣の石には、貝殻が付いている」という謎に、だんだん近づいてきたと思いませんか?
それでは、今回はここまで。
次回(3回シリーズの最終回)、今治城の石垣についての昔話を交えて、この謎の解明に迫りたいと思います。
お楽しみに!!
学芸員F