2017年12月26日火曜日

今治藩ゆかりの史跡②~松源院~

皆さん、こんにちは。

今治藩ゆかりの史跡を紹介するシリーズ、第2回目は前回の今治藩主の墓でも少し触れました松源院を紹介したいと思います。

松源院は、浄土宗の寺で今治藩主久松松平家の今治(国元)における菩提寺になります。ここには歴代藩主の位牌が祀られ、境内の墓所には主に藩主の庶子達(側室から生まれた子ども達)が葬られていました。

創建は、明暦2(1656)年。寺の名前は初代藩主・松平定房の母親の法名からとったと云われています。
松源院に藩主が葬られる事はありませんでしたが、代々の藩主の位牌が祀られた菩提寺という関係から、格式の高い寺として藩から手厚い保護を受けていました。

また、一部の今治藩士の墓も同じく松源院や、その塔頭である永寿院・常照院に設けられており、まさに今治藩にとっては非常に関係の深い寺であったといえるでしょう。

さて、松源院は、今治城下の北側に設けられた寺町(藩が寺院を集めて作った地区)の一角にありました。現在の住所でいうと今治市風早町4丁目に当たりますが、残念ながらその痕跡は残されていません。

松源院跡地。現在は駐車場や住宅地になっています。

写真から見てもわかるように現在、松源院があった場所は駐車場や住宅地になっています。

これは、明治2(1869)年に藩主である久松家(前年に松平姓から久松姓に復姓)が、家の宗教を浄土宗から神道へ改宗した事に伴い廃寺となってしまったためです。
久松家がこの時期に神道へ改宗した明確な理由はわかりませんが、朝廷に対する配慮ではなかったかと推測されます。

その後、松源院跡地は近代の今治において特産品となった綿ネルを製造する工場や材木工場等に転用されました。

以上のように今治藩主の菩提寺として大いに栄えたであろう松源院は、現在その痕跡を地上に残していません。
唯一、当時を偲ばせるものとしては、松源院の本尊であった阿弥陀如来座像がすぐ近くの正法寺に残されています。

正法寺の本尊である阿弥陀如来座像。
かつては松源院の本尊でした。

この阿弥陀如来坐像は、松源院が廃寺になる際に、正法寺が元々松源院の住職の隠居寺であった関係で引き取ったと云われています。

寺町で最大の規模を誇りながらも明治時代初期に姿を消した松源院。
今ではその面影を探すのは難しいですが、周辺は今でも多くの寺院が立ち並んでおり、城下町のかつての風情を偲ぶ事が出来る数少ない地域です。

                    今治城 伊津見

2017年12月16日土曜日

今治藩ゆかりの史跡①~今治藩主の墓~

皆さん、こんにちは。

当ブログでは、これまで今治城の日々の出来事や今治城で行われたイベント等を中心に紹介していましたが、今回より今治藩にゆかりのある史跡の紹介も併せてしていきたいと思います。
地元の方や、旅行で今治に訪れて頂いた方に今治城以外の史跡にも興味を持って頂くきっかけになれば幸いです。

さて、ここから本題に移りますが、記念すべき第1回目は昨年秋の今治城特別展「今治藩主 久松松平氏の世界」でも取り上げました久松松平家の墓を紹介したいと思います。


県道38号線沿いに入口があります。

江戸時代、久松松平家は国元である今治と江戸の2ヶ所に墓を設けておりまして、今治では今回紹介する今治市古国分及び城下町にあった松源院に、江戸では以前当ブログでも紹介しました東京都江東区の霊厳寺にそれぞれ歴代藩主とその家族が葬られていました。

このうち歴代藩主で今治に墓があるのは、松平定房(初代)・松平定陳(3代)・松平定基(4代)の3人ですが、残りの2代及び5代~9代までの6人の藩主は江戸の霊厳寺に墓があります。
(10代定法のみ東京・谷中墓地)

今回は今治市古国分に残る定房・定陳・定基の3人の藩主の墓を紹介したいと思います。


県道38号線沿いの入口から趣のある石段が続きます。


石段を登った先には3人の藩主の墓が並んでいます

3人の藩主の墓は中世に国分山城が築かれた国分山の北東側にある小高い丘の上にあります。
上の写真で見ますと、左から定陳(3代)・定房(初代)・定基(4代)の順に並んでいます。

       
初代藩主・松平定房の墓


初代藩主・松平定房は、徳川家康の甥に当たる人物で江戸城大留守居役を任される等、江戸幕府からの信頼が厚い人物でした。藩主を退いた後は、この古国分地区に桐ノ木書院という屋敷を構え、悠々自適の隠居生活を送ったそうです。

       
3代藩主・松平定陳の墓
定房の墓から見て左側にあるのが、孫で3代藩主・松平定陳の墓です。

定陳は、在任中に新田開発や殖産興業を行って藩の立て直しを図る一方で、江嶋為信や岡部直明といった新参の家臣を家老に抜擢する等、人事面でも改革を推し進めました。

元禄11(1698)年、備後国(広島県)福山藩主の水野家が改易になった際には、福山城の接収を幕府から命じられる等の大役も果たしています。


4代藩主・松平定基の墓

最後に定房の墓から見て右側にあるのが、定陳の息子で4代藩主・松平定基の墓です。

定基の時代は蒼社川が何度も洪水を起こしたり、干ばつや城下町が火災で焼失する等、自然災害に何度も見舞われたため、藩の財政が逼迫していく事になります。
定基は家臣に対して支給する禄(給料)の削減といった緊縮政策を行いますが、藩の財政が好転する事はありませんでした。

以上、3人の藩主の墓とそれぞれの簡単な事跡を紹介しましたが、いずれの墓も宝篋印塔という形式で高さが3.6メートルという大名家の墓にふさわしい威容を備えているのが特徴的です。


定房の墓から海側を望む。樹木の向こう側は唐子浜です。

これら3基の墓は、いずれも海側(唐子浜)を向いて立っています。現在では、上の写真のように樹木に覆われていますが、かつてはここから穏やかな瀬戸内の景色を望む事が出来たのではないでしょうか。
墓を構えるには最高の立地といえます。

さて、上の写真には石灯篭がたくさん並んで写っているのが見えると思いますが、誰が奉納したものかわかるでしょうか?

実はこの石灯篭、今治藩の家臣達が奉納したものなんです。
その数なんと67基!
3人の藩主を守るが如くズラッと並んでいる姿は壮観といえるでしょう。
その一部をここで紹介致します。




上の写真に写っているのは、4代藩主・定基の墓の前に並んでいる石灯篭のうちの1つです。定基の時代に加判役(家老)を勤めた鱸重親が奉納したものです。



少し見えにくいですが、「鱸五郎右衛門 平茂親」と刻まれているのがわかります。



同じくこちらも4代藩主・定基の墓の前に並んでいる石灯篭のうちの1つです。今治藩で筆頭家老を勤めた服部正令が奉納したものです。


「服部逸軒 平正令」と刻まれているのがわかります。
なお、服部正令は3代藩主定陳の娘を正室に迎えていますので、定基とは義兄弟の間柄という近い関係になります。

このように古国分にある今治藩主の墓は、藩主と家臣という主従関係が一目でわかる空間になっているのが特徴的と言えるでしょう。
江戸時代初期~中期の大名家の墓所の様子がわかる上でもここは貴重な史跡です。

因みにここは愛媛県史跡にも指定されておりまして、今治市だけでなく愛媛県にとっても貴重な史跡として位置付けられています。

                   今治城 伊津見

2017年12月7日木曜日

鉄御門・武具櫓外壁改修工事のお知らせ

皆さん、こんにちは。

今治城ホームページのお知らせの項目でも告知済みですが、現在今治城では、お城の「表玄関」に当たる二之丸鉄御門と隣接する武具櫓の外壁改修工事が行われています。



鉄御門(中央)と武具櫓(右)。
鉄御門は今治城の表の顔になっています。

鉄御門は、城外から二之丸に入るための入口で、扉に鉄板を貼っている事からその名が付いたと云われています。
藤堂高虎が考案したという枡形虎口を備えた鉄御門は、その規模からまさに二之丸の「大手門」としての風格を持っていたといえるでしょう。

残念ながら、明治時代に入って今治城が廃城になると撤去されてしまいましたが、平成19(2007)年に文献調査・発掘調査の成果を基に復元されました。

一方、鉄御門に接続している武具櫓も明治時代初期に失われた建物ですが、こちらは鉄御門よりも前の昭和55(1980)年に復元されたものです。


鉄御門の北側に接続している武具櫓。

鉄御門と武具櫓が並び立つ光景は、かつての今治城の面影を彷彿とさせるものですが、鉄御門は復元されてから今年で10年。武具櫓に至っては今年で37年が経過したため、外観に傷みが目立つようになりました。

そこで、今年の10月から鉄御門と武具櫓の外壁部分の大規模改修工事を行う事になったのです。


外壁の下半分を覆う下見板張。
復元から10年が経ち、色が褪せてきています。

鉄御門の名前の由来になった、扉にびっしり貼られた鉄板。
こちらもサビや汚れといった傷みが目立ちます。

門の上部の冠木梁。
こちらも鉄板が貼られていますが、傷みが目立ちます。

今回の工事では、上記の写真で紹介したような箇所を改修していく予定でいます。
具体的には、下見板張部分や扉の鉄板等の塗装を中心とし、併せて外壁についた汚れの除去やサビ止めの塗布も行う予定です。


すでに鉄御門の一部には足場が組まれています。


工事期間は平成30(2018)年3月2日までを予定しております。
期間中は、今治城に来られるお客様や地域の皆様にご迷惑をおかけするかと思いますが、何卒ご理解ご協力賜りますようよろしくお願い申し上げます。

                   今治城 伊津見

2017年11月23日木曜日

特別展展示説明会(2回目)を行いました

皆さん、こんにちは。
当ブログとしては珍しく2日続けての連続投稿となります。

本日は、現在山里櫓にて開催中の特別展「今治藩の家臣団」の第2回目となる展示説明会を1400から開催しました。







今回は郷土史に興味をお持ちの地元の方や、遠く名古屋(!)からこの展示説明会の事を聞いて駆けつけてくださった旧家臣の末裔の方等、総勢20名以上のお客様が参加してくださり、これまで開催した説明会の中では非常に盛況なものとなりました。

参加者の中には今回史料を出陳してくださった旧家臣の末裔の方もおられ、主催者としてもゆかりの史料を説明する事が出来て感慨深かったです。

そして本特別展の期間ですが、12月3日(日)までとなっております。
興味はあるけどまだ見ていないという方、お早めにお越しください!



                    今治城 伊津見

2017年11月22日水曜日

石垣の雑木伐採が行われました

皆さん、こんにちは。

ここ数日今治は急速に冷え込み、底冷えする日々が続いております。
冬の到来が間近に迫っている感じがしますが、皆様体調などお変わりございませんでしょうか。

今治城では、11月7日から石垣に生えている雑木を伐採する作業が行われていましたが、先日20日に終了し、きれいな石垣が姿を現しました。

伐採前の石垣。
雑木がかなり生えているのがよくわかります。

石垣は屋外にあるため、石と石の隙間に植物の種子が入り込んでそこから雑木が生えてきます。そうなると伸びた根が成長する毎に石を圧迫する事となり、石垣に悪影響が出てしまいます。

そこで、今治城では越智今治森林組合さんのご協力を得て、定期的に石垣に生えた雑木を伐採して頂いているのです。


伐採後の石垣。
雑木がなくなりきれいな石垣が姿を現しました。


伐採風景。
上から垂らしたロープを駆使してどんどん伐採していきます。

伐採前の武具櫓下の石垣。

伐採後の武具櫓下の石垣。


伐採前の天守真下の石垣。

伐採後の天守真下の石垣。
土塀を覆っていた植物も取り払われすっきりしました。

野面積の石垣は、海水を引き込んだ堀と並んで今治城を代表する大切な文化財ですが、実はその石垣を守るためにこのような大がかりな伐採作業が定期的に行われているわけです。


これからの季節は寒さが厳しくなっていきますが、雑木が生えていないきれいな石垣は冬の今治城の見どころの1つといえるでしょう。
さっぱりした石垣を見にぜひ皆様今治城にお越しください。

最後に毎年伐採作業を通して石垣の保全に貢献して頂いている越智今治森林組合の皆様に厚く御礼申し上げます。

                   今治城 伊津見

2017年11月6日月曜日

藩主と家臣、お互いの末裔が対面

皆さん、こんにちは。

天候に恵まれた先週の三連休でしたが、皆様はいかが過ごされましたでしょうか。
中には国内各地に旅行で出かけた方も多いかと思います。
今治城も多くのお客様にお越し頂いたおかげで、非常に賑わっておりました。

さて、そんな賑わった三連休の今治城ですが、現在山里櫓にて開催中の特別展「今治藩の家臣団」に関連して、11月3日(金)に今治藩主久松松平家の末裔で次期当主(15代目)に当たる久松定順さんが来今され、学芸員の案内で久松家ゆかりの地を訪問されたり、かつての家臣の末裔の方達と再会するという感慨深い出来事がありました。

まず最初に訪れたのが、今治市山方町にある臨済宗妙心寺派の海禅寺さんです。

ここは、初代藩主松平定房の位牌を祀っており、その関係で江戸時代は藩主の菩提寺である松源院(現在は廃寺)と並ぶ格式を誇ったお寺です。

久松家からするとまさにご先祖様を祀っているお寺ですので、今回その関係者として久方振りに正式訪問され、初代定房公の位牌にお参りされました。

なお、今回の特別展では海禅寺さんからも所蔵されている今治藩家臣の池内家文書の一部を出陳して頂いています。


最後の藩主松平勝吉公が揮毫した「海禅寺」の額の拓本をバックに記念撮影。

左が久松さん。右が海禅寺の薬師寺住職。

次に今回の特別展でも、甲冑をはじめ多くの史料を出陳して頂いた今治藩家臣の末裔である鈴木さん宅を訪れ、挨拶をされました。

          
今治藩家臣の末裔である鈴木さんご一家と記念撮影

江戸時代、藩主が家臣の家を訪問する事を歴史的用語で「御成」と言いますが、この日の鈴木さん宅訪問はまさに現代の「御成」だったと言えるでしょう。
(実際に江戸時代、今治藩主が家老の家を訪問した記録は『今治拾遺』にもよく見られます。)
お互い初対面であったにも関わらず、学芸員も交えて今治城の天守が再建された頃の話等で大いに盛り上がり、最後は打ち解けられていたのが印象的でした。


一方、この日の午後には同じく今回の特別展で幕末期の当主の写真等、いくつかの史料を出陳して頂いた今治藩家臣の末裔である堀洋一さんとそのご家族が特別展の見学のため、遠く千葉県からお越しになられました。

事前に学芸員から堀さんに久松さんも当日来今されるという事を伝えていましたので、久松さんと堀さんもお互いの先祖ゆかりの地である今治城にて対面を果たされました。
もしかしたらこの両者の対面は、1871(明治4)年の廃藩置県以来になるかもしれません…

この後、久松さんと堀さんご一家は特別展の会場である山里櫓に移動されましたが、旧藩主と旧家臣それぞれの末裔が一緒に展示を見学するというのはこれまで見られなかった光景だと思います。展示解説をした学芸員である私も何か不思議な感じがしました

学芸員の解説を聞きながら展示を見学される堀さんご一家と久松さん。



会場の山里櫓にて新聞社の取材を受ける久松さん(左)と
堀さん(右)

          
最後は会場の前で記念撮影をしました。

今治藩の家臣団は、その多くが今治の外から集まって来た武士達で構成されており、藩主と家臣という君臣関係がここ今治を舞台に230年間続いてきました。

明治の廃藩置県によって旧藩主は明治政府の命令で東京へ移住する一方、旧家臣達の多くは県外に転出する等四散していき、今治藩の家臣団は歴史の彼方に消えていきます。
しかし、それから146年という時を経て、今治城で今治藩の家臣団をテーマとした特別展を開催した事により、先月の講演会や今回のように藩主と家臣それぞれの末裔同士の対面が実現出来たのは、非常に喜ばしい事と思います。

この日は久松さんをはじめ家臣の末裔の方々も縁の不思議さを実感されたのではないでしょうか。

最後にこの企画の実現にご協力頂きました家臣の末裔の方々等、関係者の皆様には厚く御礼申し上げます。

                              
                              学芸員 伊津見

2017年11月2日木曜日

特別展展示説明会を行いました

皆さん、こんにちは。

これまで何度かこのブログでも取り上げておりますが、現在今治城では特別展「今治藩の家臣団」を開催しております。

少し前になりますが、10月29日(日)1400から会場である山里櫓において学芸員による展示解説会を行いました。





今回の特別展では、キャプションや図録に展示史料に関する説明を書いてはおりますが、ページの都合で泣く泣く省いた箇所もあります。
そうした表に出せなかった話を中心にして展示史料の説明を行いました。

展示説明会は、11月23日(木・祝)にも再度開催する予定でおりますので、今回参加出来なかった方、また、ご興味のある方はぜひお越しください。(予約不要)


                    今治城 学芸員
                      伊津見

2017年10月22日日曜日

平成29年度今治城特別展「今治藩の家臣団」関連企画講演会を行いました。

皆さん、こんにちは。

今治城では、平成29年度特別展として10月7日(土)から江戸時代を通じて今治藩主久松松平家に仕えた家臣たちをテーマとした「今治藩の家臣団」を開催しています。


家臣の家に伝わる武具甲冑・古文書など合計50点におよぶ貴重な史料を展示している特別展ですが、先日10月21日(土)1330から吹揚神社寿殿(旧今治城二之丸)で、関連企画として講演会「江戸武士の二つの顔 戦士と役人」が行われました。



会場の寿殿は参加者で大盛況でした

講師は、九州大学大学院比較社会文化研究院教授で日本近世史をご専門にされている高野信治先生です。

現在開催中の特別展は大名家の家臣、すなわち武士にスポットを当てていますが、今回の講演では近世社会における武士の実像について近世大名家やその家臣団の事を長年研究されている高野先生に「江戸武士の二つの顔 戦士と役人」というタイトルで講演して頂きました。


多くの史料をもとに武士の実像について話して頂きました。

平和な時代における武士とはどんな存在だったのか?
先生は現代社会と対比してわかりやく解説されていました。

中世から戦国時代まで武士は戦闘者であり、領主という側面を持っていましたが、戦争がない平和な江戸時代において武士本来の性格がどのように変化していったのか、「戦士」と「役人」をキーワードに考えるという内容でした。

江戸時代以降、武士は役人としての性格が強くなりますが、各藩に残されている役人としての職務規定には公私の区別をしっかりするように藩から求められている等、現代社会でも通ずるものがあり、参加された皆様にとっても武士の存在が身近に感じられたのではないでしょうか。

続いて、高野先生の後に今治城学芸員である私、伊津見が「今治藩の家臣団の形成過程」というタイトルで少しばかり講演させて頂きました。

今治藩の家臣団のは4つの時期にかけて形成されていった事
を中心に解説しました。

今治藩の家臣団というのは、初代藩主松平定房の父である松平定勝から付属された家臣や、改易された大名家の元家臣(浪人)、或いは他の大名家の家臣の次男・三男や、在地(今治)出身の者たちで構成されていました。
出自も経歴も皆バラバラで、それが大きく4つの時期にかけて形成されていったという事を中心とした内容で講演させて頂いた次第です。

講演会当日は、台風が接近していた事もあり、天気も非常に悪かったのですが、それにも関わらず70名もの方が参加されて大盛況でした。厚く御礼申し上げます。
近世社会における武士の在りかたについて、そして今治藩の家臣団について少しでも参加された皆様の理解が深まって頂ければ幸いです。

また、この日は旧今治藩主家末裔の久松定順様とかつて今治藩に仕えていた家老の戸塚家を始めとする旧家臣の末裔の方々がたくさん参加されていました。
恐らく、藩主と家臣のそれぞれの末裔が対面したのは、久しくなかったと思われます。

そういった意味でも、今回の講演会は非常に意義深いものになったのではないかと思います。

今治城としては、今後も秋の特別展で関連企画として講演会を行う予定でおりますので、よろしくお願い致します。

                   今治城 学芸員
                   伊津見

2017年10月7日土曜日

平成29年度今治城特別展「今治藩の家臣団」始まりました!

皆さん、こんにちは。

久々のブログ更新になります。
ここ最近、放置気味になっており、申し訳ない次第です…

さて、久々の投稿内容は本日10月7日(土)より今治城で始まりました平成29年度特別展「今治藩の家臣団」についてです。

特別展「今治藩の家臣団」のポスター

今治城では、昨年秋に今治藩主として江戸時代に今治を治めた久松松平家を取り上げた「今治藩主 久松松平氏の世界」を開催致しましたが、今回の特別展「今治藩の家臣団」はその今治藩主久松松平家に仕えた家臣たちをテーマとしています。

彼らについては、史料の制約等があってわからない事も多いのですが、今治城ではここ数年にわたって家臣の末裔宅での史料調査を継続的に行っており、少しずつ成果を上げてきています。
今回、その調査の過程で発見された貴重な史料を一部展示する事で今治藩の家臣団の実像に迫る内容となっております。

具体的な展示品としましては

・家臣たちが使用していた武具(具足や刀など)

・藩主から家臣たちに宛てた知行宛行状

・家臣たちの日常にまつわる道具

などなど。
この他にも幕末明治初期の家臣を撮影した古写真類や、江嶋為信や半井梧菴といった特徴的な業績を持つ家臣に関する史料も展示しております。

全部で50点になる展示史料ですが、中には約100年ぶりに今治に里帰りしたものも含まれており、その点でも今回の特別展はこれまでと違った内容になっているといえるでしょう。
ぜひ、多くの方に見学して頂き、今治藩と藩主の久松松平家を支えた家臣たちの実像に触れてもらえればと思います。

会期は10月7日(土)~12月3日(日)まで。
会場は城内の山里櫓になります。
(観覧券購入は天守閣1階の受付でお願い致します。)




会場内の風景



                今治城学芸員 伊津見


2017年8月20日日曜日

お堀で今治市民カッター競技大会

こんにちは。

お盆を過ぎ、朝晩は以前と比べて涼しくなり、少しずつ秋の気配が感じられる季節になってきました。とはいっても、日中はまだまだ真夏の暑さです。

まだ秋とは言わせない。もう一回夏を満喫するぞ!とばかりに、今年も今治市民カッター大会が今治城のお堀で行われました。


6人の漕ぎ手が乗り込んだ手漕ぎボートの速さを競うレースです。

距離は約200m。今治城の堀が直線で、かつ幅が広いからこそできるレースです。

今回で26回目とのこと。すっかり恒例行事ですね。



 今年は去年以上にたくさんのチームが参加していたようです。
大盛り上がりです。





みっちり練習を積んでいそうな強豪チームもあれば、




少年少女で頑張っているチームもあれば、



「参加することに意義がある」と頑張っているチームも。




みなさん、それぞれのスタンスで大会を楽しんでいました。

暑い中、お疲れさまでした。
よい夏の思い出ができましたね。

学芸員 ふじもと