2017年4月29日土曜日

企画展「暮らしの今昔in今治」始まりました!

皆さん、こんにちは。

ついにゴールデンウィークが始まりましたが、この期間中に国内外へ旅行に出かける方も多いのではないでしょうか。


今治城も初日から多くのお客様で賑わっております。

さて、そんな今治城ですが、本日29日より城内の山里櫓において平成29年度企画展「暮らしの今昔in今治」が始まりました!




この企画展は、普段私たちが使っている身近な生活道具が、今に至るまでどのような変化を遂げてきたのか、その様子を「衣」「食」「住」をテーマに紹介するものです。

そのため、今回は明治時代から現在にかけて実際に使われた様々な生活道具約50点を、今治市内の各資料館や公民館、或いは個人の方から借用して展示しております。



会場の山里櫓。
城の正面に当たる鉄御門の反対側にあります。
山里櫓奥の企画展コーナー入り口。

今回の企画展は山里櫓の3分の2を会場に充てています。



それでは展示品の一部を紹介します!

まずは、日本人の「食」に欠かせないお米に関係する道具である電気炊飯器と飯櫃。


飯櫃(左)と電気炊飯器(右)

今の炊飯器は、ご飯を炊くだけではなく、保温する事も出来ますが、昭和30年代に登場した炊飯器はご飯を炊く事しか出来ませんでした。
そのため、当時はご飯を炊いたら冷えないように飯櫃という保温専用の容器に移しかえていたのです。

次は木製冷蔵庫。

氷を使った木製冷蔵庫

明治時代の終わり頃に登場したそうですが、今のような電気で冷やすのではなく、氷の塊を扉が開いている上段に入れ、その冷気を利用して食品を冷やすという仕組みでした。

内部にはブリキ板が貼られているのですが、これは冷気を外に逃さないための工夫の1つです。
    
会場風景


       
展示品の紹介は以上ですが、この他にも足踏みミシンや炭火アイロン、灯油ランプといった昔実際に使われていた生活道具が多数展示しております。
恐らく懐かしいという感想を持たれる方も多いのではないでしょうか。

また、それだけではなく、今の生活道具も一緒に展示しています。
例えば炭火アイロンなら、その現代版に当たるコードレスアイロンを並べて展示する事で、身近な生活道具がどのように変化していったのかがわかるようになっています。

昭和レトロ感あふれる平成29年度今治城企画展「暮らしの今昔in今治」。
6月18日(日)まで開催しておりますので、多くの方のお越しをぜひお待ちしております!

                   今治城 伊津見

2017年4月9日日曜日

放水式

皆さん、こんにちは。

今治城の桜もついに満開となり、週末から多くのお客様で賑わっております。

鉄御門前の桜もこの通り満開です!

そんな桜が満開の今治城ですが、毎年恒例の今治市消防団今治方面隊による放水式が本日行われました。

     
堀端にズラッと並んだ消防車。壮観です。


     

放水開始の合図は天守閣最上階から出されました



そして…放水開始!



山里側の公園から見た放水の様子です。

     
     
天守閣最上階から見た放水の様子です。

上の写真を拡大。天守閣から見た放水の様子も迫力があります。

放水式は1100から30分程で終了しました。
1年に1回しか見る事が出来ないレアな光景なので、今日目にする事が出来た観光客の皆さんにとっては、良い思い出になったのではないでしょうか。

来年も多くの方が見に来られるのをお待ちしております。

                    
                    今治城 伊津見


2017年4月5日水曜日

霊厳寺訪問

皆さん、こんにちは。

全国的にようやく暖かくなってきた影響で、最近今治城では城内の桜が少しずつ開花してきております。いよいよ待ちに待った春が到来してきたという感じです。


さて、私、伊津見は先月末に出張で東京に行って参りました。


今治城では、現在、今治藩関係の史料調査を行っておりますが、必ずしも史料は今治市内に残っているわけではありません。今治市外、或いは愛媛県外に存在するケースもあり、それらの調査のため遠方に出張する事もあります。


今回は、東京在住の今治藩士の末裔の方が所蔵されている史料の調査と、今治藩主久松松平家の菩提寺である霊厳寺への訪問が目的の出張でした。


本記事では、この霊厳寺訪問について紹介したいと思います。



霊厳寺境内。昔はもっと広大な敷地を誇ったそうです。

霊巌寺は、東京都江東区白河に位置する浄土宗寺院です。

1624(寛永元年)に霊巌上人によって日本橋に創建されましたが、1657(明暦3)年の明暦の大火によって焼失した後、現在地に移転。
江戸時代を通じて浄土宗の僧侶を養成する檀林(学校)の1つでもあった事から、大いに栄えていたと云われています。

そんな霊厳寺ですが、複数の大名家の菩提寺という側面も持っていました。

具体的には、近江国膳所藩主(滋賀県大津市)本多家や、伊勢国桑名藩主(三重県桑名市)松平家が該当します。

そして…我が今治藩主久松松平家もここ霊厳寺を菩提寺としています。



この墓石が今治藩主久松松平家の墓です。
左右の石灯篭には家紋の星梅鉢が見られます。

巨大な五輪塔で、非常に立派な墓石です。

ちなみに歴代藩主10人のうち江戸で亡くなった7名は霊厳寺に、今治で亡くなった3名は今治の国分山墓所にそれぞれ葬られています。

当時は、遺体の輸送にも現代と違って手間がかかるため、江戸で亡くなった藩主は、今治ではなく江戸に葬るように決められていたのではないでしょうか。(その辺の基準は史料に残されていないためよくわかっていません…)

また、霊厳寺には江戸住まいであった歴代藩主の正室や、幼くして亡くなった子ども達の墓もあり、数十以上にも及ぶ墓石が林立していたそうです。

しかし、1923(大正11)年の関東大震災によって霊巌寺と共に久松松平家の墓石群も壊滅。

震災復興の過程で、広大な同家の墓所は当時の東京市(現東京都)からの要請で整理縮小する事となったため、残っていた2代藩主松平定時の墓石(上記写真の墓)に、それ以外の歴代藩主やその家族を全て合葬したとの事。


表面には「嶺香院殿実誉体安恵相大居士」の文字が。
2代藩主松平定時の戒名です。



このため、今治藩主で現存している墓石は、今治に残る初代定房・3代定陳・4代定基と、残りの藩主やその家族を合葬した2代定時の4人しか残っていないとされていました。

ところが、近年になって霊巌寺近くで行われた地下鉄大江戸線の建設工事の際に、大名家の墓石の一部と思われる部材がいくつか発見され、霊巌寺ではこれらを引き取って境内の隅に安置していました。とはいえ、当時はこれらの墓石が誰のものかはよくわからなかったそうです。


今回住職さんの案内で、この墓石の部材群を調査させてもらったところ、そのうちの1つは、なんと第7代今治藩主松平定剛の墓石の一部である事が判明!

これが今回の出張で大きな収穫となりました。

           
これが7代藩主定剛の墓石の一部です。
上部には花弁があしらわれています。



                       

表面には「豫州今治城主 松平壱岐守源定剛」の文字が。
   これが7代藩主定剛の墓石の一部である事の決め手になりました。

一部とはいえ、5人目の藩主の墓石が残っていたという事実が確認出来たのは、非常に喜ばしい事であります。
また、今治から遠く離れた東京で「豫洲今治城」の文字を見て感慨深いものがありましたし、今回の調査で確認出来た内容に関しては、近いうちに今治城の天守閣内の展示にも生かしていきたいところですね。



当日は、雨が降る中での霊巌寺訪問でしたが、久松家末裔の久松定順さんにも同行して頂き、住職さんとも初めてお会いする事が出来ました。
お忙しい中、お付き合い頂きましたお二方には感謝申し上げます。



                                                                                         今治城 伊津見