2019年2月10日日曜日

今治藩ゆかりの史跡⑥~海禅寺~

皆さん、こんにちは。

今治藩ゆかりの史跡を巡るシリーズ6回目は、今治市山方町にある海禅寺です。


海禅寺全景

臨済宗妙心寺派に属する海禅寺は、その創建時期は不明ですが、少なくとも戦国時代には存在していたとされています。
その頃は、海会寺と名乗っていましたが、寛永10(1633)年に当時の今治城代であった藤堂高吉に願い出て、現在の名前に改称しました。

改称の2年後、藤堂高吉は伊賀国(三重県)に転封となり、代わりに松平定房が今治城に入ります。
定房は、藩主在任中に度々海禅寺を訪れており、時の住職である万化和尚から仏教の教えを聴く等、両者は親しい関係にあったようです。
生前のそうした関係が影響してか、定房が亡くなるとその位牌が海禅寺に祀られるようになりました。


海禅寺本堂。
明治3(1870)年に焼失後、再建されたものです。

また、定房以降の歴代藩主も花見等で度々訪れており、江戸時代を通じて海禅寺は今治藩ゆかりの寺院として、松源院(風早町)・光林寺(玉川町)に次ぐ寺格を誇りました。


そんな歴史を有する海禅寺ですが、もう1つの特徴として挙げられるのが、境内に多くの今治藩士(特に上級)の墓が存在しているという点です。

以下、その一部を紹介していきたいと思います。

➀服部家
筆頭家老を務めた服部家の墓所

服部家は、徳川家康に仕えた服部半蔵の子孫に当たりますが、今治服部家の初代の服部正純が、松平定房の妹の孫であった関係から、寛文9(1669)年に今治藩に召し抱えられ、後に筆頭家老にまで出世します。

服部家は代々が1000石取りの筆頭家老として明治維新まで存続しました。


今治服部家初代の服部正純の墓



➁江島家
江島家の墓所

江島家も服部家と同じく代々今治藩で家老を務めた家になります。
初代の江島為信は、元々は日向飫肥(宮崎県日南市)藩主の伊東家に仕えていましたが、浪人して江戸で軍学者や文学者として活躍します。

代表的著作に「身の鏡」「理非鏡」等があり、17世紀後半の江戸では名が知られていた作家だったようです。
寛文8(1668)年に江戸で今治藩に召し抱えられましたが、政治家としても非常に有能な人物だったようで、為信もまた500石取りの家老にまで出世しました。


江島為信の墓(遺髪のみ葬る)



③池内家
池内家の墓所

池内家は、今治藩で旗奉行や馬廻等を務めた家です。
元々は、松山藩主の蒲生家に仕えていましたが、同家が寛永12(1634)年に改易された後、今治藩に召し抱えられています。

池内重華夫妻の墓

幕末期の当主である池内重華は、藩校克明館の総督を務めましたが、戊辰戦争の際は大阪で1万2千両という軍資金を調達し、今治藩の戦費を賄う等の功績を立てています。

維新後は陸軍に出仕し、陸軍中佐にまで出世しました。



➃町野家
町野家の墓

町野家も池内家と同じく、元々松山藩主蒲生家に仕えていました。
今治藩では、馬廻や郡奉行等を務めています。



➄松本家


松本家は、今治藩で大目付等を務めた家です。
写真の墓は、幕末維新期の当主の松本節也とその妻のものですが、彼は文久元(1861)年から慶応元(1865)年まで宇摩郡(愛媛県四国中央市)にあった今治藩領の代官を務めています。



⑥半井家
半井梧菴の墓(遺髪・遺歯のみ葬る)


半井家は、元々京都の出身で、代々藩医として今治藩に仕えた家です。

幕末維新期の当主である半井梧菴(忠見)は、藩医として天然痘の予防接種に当たる種痘の実施に尽力する反面、国学者・歴史学者・歌人としての顔も持つマルチな人物でした。

半井梧菴の著作「愛媛面影」(今治城蔵)

特に梧庵は、明治2(1869)年、伊予国内の旧所名跡を調査してまとめた「愛媛面影」を出版した事でも有名です。

半井元章やその他の家族の墓

梧菴の墓の隣には、夭折した長男・元章やその他の家族の墓も並んでいます。



➆久松長世
久松長世の墓

久松家は、藩主一族であり、服部家以前に今治藩で筆頭家老を務めた家です。
同家の菩提寺は寺町の大雄寺ですが、幕末維新期の当主であった久松長世の墓のみここ海禅寺にあります。

長世は、洋式軍備を導入したり、第二次長州征討の中止を幕府の本営に意見する等、幕末今治藩の中心人物として活躍しました。


以上が、海禅寺に存在する今治藩士の墓の一部です。
特に江島為信や半井梧菴等、今治藩の中で重要な役割を果たした人物の墓が目立つのが特徴といえます。

これらの墓が点在する本堂裏手の墓所は、小高い丘になっており、かつては今治の町を見下ろせるようになっていた事でしょう。

                    今治城 伊津見

※久松家の菩提寺を「法華寺」としていましたが、正しくは「大雄寺」です。お詫びして
 訂正いたします。(平成31年3月16日)