2019年4月13日土曜日
新今治城館長 あいさつ
初めまして。新今治城館長の稲田です。
この度、今治城に来まして、全国各地から多くの方々にご来場いただいていることに、とても驚きと感謝をしております。
今治城は、1602年頃から築城の名手として名高い藤堂高虎によって築城された、日本屈指の海城です。また、史上初の各階を順次小さくして積み上げる「層塔型天守」、内堀に積み上げられた石垣は、高いところで約13mもあり、石垣の周りには地盤を強固にする非常に珍しい「犬走り」など、多くの見どころがあります。
このような歴史的な価値と美しい景観などによって、2006年に「日本100名城」に選ばれた今治城です。
ぜひ、皆さんに来ていただきたいと思っています。
職員一同、皆さんのお越しをお待ちしております。
2019年4月12日金曜日
今治城スタンプラリー ポストカードプレゼント
こんにちは。
お城の桜も満開を過ぎ、新葉が目立つようになってきました。
今治城では、観覧券が天守と3つの櫓(御金櫓、山里櫓、鉄御門・武具櫓)に入場できる共通券となっているため、4つの建物を巡るスタンプラリーを実施しています。
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| スタンプラリー台紙 |
こちらの台紙を天守4階にご用意していますので、櫓を巡りスタンプを集めて、今治の歴史や文化に触れられてはいかがでしょう。
全てのスタンプを押された方には、以下の種類のポストカードを一枚プレゼントしています。
このたび、ポストカードが増えました。第一回今治城写真コンテストで大賞に選ばれた武田暁子さんの作品「春爛漫」です。
ぜひ一度、今治市の観光と文化のシンボル今治城へお越しください。
2019年4月7日日曜日
満開の桜と「ミナト今治音楽横丁」
こんにちは。
一昨日頃から今治城の桜は満開となり、そよ風で桜の花びらが少し舞い(桜吹雪)、風情ある光景が広がっています。
そんな日の日曜日(4月7日)、城内の公園で音楽ライブが開催されています。
「ミナト今治音楽横丁」です。
今治の市街地振興の取り組みを進めている元気な方々が主催です。
今回で30回目だそうです。がんばっています。
城内の4か所で、一組約30分の持ち時間で、午前11時から午後4時ごろまで、にぎやかに音楽が奏でられています。
お花見とともに音楽を楽しむ。
春らしいですね。
ちなみに「ミナト今治音楽横丁」の次回は、ゴールデンウィークの真っただ中、5月5日(日)に、今治の港と商店街で開催されます。
ぜひ足をお運びください。
学芸員 F
2019年4月4日木曜日
桜が満開間近!!
こんにちは。
新年度になって4日が過ぎました。
今年は今治地方は3月後半から少し寒くて、天候も荒れ模様で、今治城の桜の開花は遅れ気味だったのですが、
今週に入り、ようやく春らしい暖かさとなり、
桜も一気に咲き始めました。
今日現在で、八分咲きといったところ。
今週末にかけて、満開になると思われます。
お花見のお客さんも増えてきています。
今治城と桜の美しい競演。
ぜひ、ご来城ください。
新年度になって4日が過ぎました。
今年は今治地方は3月後半から少し寒くて、天候も荒れ模様で、今治城の桜の開花は遅れ気味だったのですが、
今週に入り、ようやく春らしい暖かさとなり、
桜も一気に咲き始めました。
今日現在で、八分咲きといったところ。
今週末にかけて、満開になると思われます。
お花見のお客さんも増えてきています。
今治城と桜の美しい競演。
ぜひ、ご来城ください。
学芸員 F
2019年3月16日土曜日
学芸員のお仕事~史料調査~
現在、今治城には2名の学芸員が在籍していますが、普段は天守の中にある事務所に詰めて、天守内部で史料を展示したり、収蔵史料の調査・整理を基本的な仕事としています。
例えば天守2階~4階で展示している史料の解説文(キャプション)を作成するのも学芸員の仕事です。
しかし、その活動範囲は今治城内にとどまりません。
時には地域(今治市内外問わず)へ出ていき、神社や寺院、或いは個人宅に赴いて、そこが所蔵している古文書等の史料を調査する事も学芸員の大切な仕事の1つです。
先日は今治市延喜にある乗禅寺という真言宗の寺院で、史料調査を行ってきました。
![]() |
| 乗禅寺全景。写真は昨年夏に撮影されたものです。 |
乗禅寺は、別名「延喜の観音さん」として地域に親しまれているお寺で、その創建は平安時代、醍醐天皇(885~930)の頃までさかのぼると云われています。
中世に入ると後醍醐天皇から帰依を受けると同時に、伊予国の守護大名である河野氏の庇護を受け、大いに栄えました。
そうした長い歴史と由緒を持つ乗禅寺が所蔵する史料を調査する事になったわけですが、今回は今治市文化振興課・村上水軍博物館による史料調査に合流する形で、今治城も参加する事になりました。
調査対象となった史料は、乗禅寺に伝わる棟札11点及び仏具や掛軸です。
※棟札=建物が上棟した時に、屋根裏に据える建築年や施主
及び建築に携わった人たちの名前等が書かれた札。
棟札の全体像はこういう形になっています。
まずは、棟札のサイズ(法量)をメジャーで計り、記録します。
| 棟札のサイズを計測。 |
次に棟札の写真を撮ります。
文字が読み取れるように、3~4回に分けて撮影します。
| 棟札の写真を撮影。 |
最後に棟札1枚1枚を並べ、書いてある内容を調べて記録をとります。(年号・人名等)
| 棟札に書かれている内容を調べます。 |
| 文字を読み解いていくと様々な発見があります。 |
史料調査は、地域の歴史研究のために欠かせないものでありますが、それ以上に大切なのは、市内のどこに、どんな史料が存在しているかを学芸員側が把握するという点です。
所在と内容さえ把握していれば、例えば災害が発生した時に史料を迅速に救出する事も可能です。昨今頻発する自然災害を考えると、地域の歴史を物語る史料の把握はとても重要といえます。史料調査というのは、地道なものではありますが、未知の史料と遭遇した時のドキドキ感を味わえるのも、学芸員の仕事の醍醐味と言えるでしょう。
今治城学芸員
伊津見孝明
2019年2月10日日曜日
今治藩ゆかりの史跡⑥~海禅寺~
皆さん、こんにちは。
今治藩ゆかりの史跡を巡るシリーズ6回目は、今治市山方町にある海禅寺です。
臨済宗妙心寺派に属する海禅寺は、その創建時期は不明ですが、少なくとも戦国時代には存在していたとされています。
その頃は、海会寺と名乗っていましたが、寛永10(1633)年に当時の今治城代であった藤堂高吉に願い出て、現在の名前に改称しました。
改称の2年後、藤堂高吉は伊賀国(三重県)に転封となり、代わりに松平定房が今治城に入ります。
定房は、藩主在任中に度々海禅寺を訪れており、時の住職である万化和尚から仏教の教えを聴く等、両者は親しい関係にあったようです。
生前のそうした関係が影響してか、定房が亡くなるとその位牌が海禅寺に祀られるようになりました。
また、定房以降の歴代藩主も花見等で度々訪れており、江戸時代を通じて海禅寺は今治藩ゆかりの寺院として、松源院(風早町)・光林寺(玉川町)に次ぐ寺格を誇りました。
そんな歴史を有する海禅寺ですが、もう1つの特徴として挙げられるのが、境内に多くの今治藩士(特に上級)の墓が存在しているという点です。
以下、その一部を紹介していきたいと思います。
➀服部家
服部家は、徳川家康に仕えた服部半蔵の子孫に当たりますが、今治服部家の初代の服部正純が、松平定房の妹の孫であった関係から、寛文9(1669)年に今治藩に召し抱えられ、後に筆頭家老にまで出世します。
服部家は代々が1000石取りの筆頭家老として明治維新まで存続しました。
➁江島家
江島家も服部家と同じく代々今治藩で家老を務めた家になります。
初代の江島為信は、元々は日向飫肥(宮崎県日南市)藩主の伊東家に仕えていましたが、浪人して江戸で軍学者や文学者として活躍します。
代表的著作に「身の鏡」「理非鏡」等があり、17世紀後半の江戸では名が知られていた作家だったようです。
寛文8(1668)年に江戸で今治藩に召し抱えられましたが、政治家としても非常に有能な人物だったようで、為信もまた500石取りの家老にまで出世しました。
③池内家
池内家は、今治藩で旗奉行や馬廻等を務めた家です。
元々は、松山藩主の蒲生家に仕えていましたが、同家が寛永12(1634)年に改易された後、今治藩に召し抱えられています。
幕末期の当主である池内重華は、藩校克明館の総督を務めましたが、戊辰戦争の際は大阪で1万2千両という軍資金を調達し、今治藩の戦費を賄う等の功績を立てています。
維新後は陸軍に出仕し、陸軍中佐にまで出世しました。
➄松本家
松本家は、今治藩で大目付等を務めた家です。
写真の墓は、幕末維新期の当主の松本節也とその妻のものですが、彼は文久元(1861)年から慶応元(1865)年まで宇摩郡(愛媛県四国中央市)にあった今治藩領の代官を務めています。
⑥半井家
梧菴の墓の隣には、夭折した長男・元章やその他の家族の墓も並んでいます。
以上が、海禅寺に存在する今治藩士の墓の一部です。
特に江島為信や半井梧菴等、今治藩の中で重要な役割を果たした人物の墓が目立つのが特徴といえます。
これらの墓が点在する本堂裏手の墓所は、小高い丘になっており、かつては今治の町を見下ろせるようになっていた事でしょう。
今治城 伊津見
今治藩ゆかりの史跡を巡るシリーズ6回目は、今治市山方町にある海禅寺です。
| 海禅寺全景 |
臨済宗妙心寺派に属する海禅寺は、その創建時期は不明ですが、少なくとも戦国時代には存在していたとされています。
その頃は、海会寺と名乗っていましたが、寛永10(1633)年に当時の今治城代であった藤堂高吉に願い出て、現在の名前に改称しました。
改称の2年後、藤堂高吉は伊賀国(三重県)に転封となり、代わりに松平定房が今治城に入ります。
定房は、藩主在任中に度々海禅寺を訪れており、時の住職である万化和尚から仏教の教えを聴く等、両者は親しい関係にあったようです。
生前のそうした関係が影響してか、定房が亡くなるとその位牌が海禅寺に祀られるようになりました。
| 海禅寺本堂。 明治3(1870)年に焼失後、再建されたものです。 |
また、定房以降の歴代藩主も花見等で度々訪れており、江戸時代を通じて海禅寺は今治藩ゆかりの寺院として、松源院(風早町)・光林寺(玉川町)に次ぐ寺格を誇りました。
そんな歴史を有する海禅寺ですが、もう1つの特徴として挙げられるのが、境内に多くの今治藩士(特に上級)の墓が存在しているという点です。
以下、その一部を紹介していきたいと思います。
➀服部家
| 筆頭家老を務めた服部家の墓所 |
服部家は、徳川家康に仕えた服部半蔵の子孫に当たりますが、今治服部家の初代の服部正純が、松平定房の妹の孫であった関係から、寛文9(1669)年に今治藩に召し抱えられ、後に筆頭家老にまで出世します。
服部家は代々が1000石取りの筆頭家老として明治維新まで存続しました。
| 今治服部家初代の服部正純の墓 |
➁江島家
| 江島家の墓所 |
江島家も服部家と同じく代々今治藩で家老を務めた家になります。
初代の江島為信は、元々は日向飫肥(宮崎県日南市)藩主の伊東家に仕えていましたが、浪人して江戸で軍学者や文学者として活躍します。
代表的著作に「身の鏡」「理非鏡」等があり、17世紀後半の江戸では名が知られていた作家だったようです。
寛文8(1668)年に江戸で今治藩に召し抱えられましたが、政治家としても非常に有能な人物だったようで、為信もまた500石取りの家老にまで出世しました。
| 江島為信の墓(遺髪のみ葬る) |
③池内家
| 池内家の墓所 |
池内家は、今治藩で旗奉行や馬廻等を務めた家です。
元々は、松山藩主の蒲生家に仕えていましたが、同家が寛永12(1634)年に改易された後、今治藩に召し抱えられています。
| 池内重華夫妻の墓 |
幕末期の当主である池内重華は、藩校克明館の総督を務めましたが、戊辰戦争の際は大阪で1万2千両という軍資金を調達し、今治藩の戦費を賄う等の功績を立てています。
維新後は陸軍に出仕し、陸軍中佐にまで出世しました。
➄松本家
松本家は、今治藩で大目付等を務めた家です。
写真の墓は、幕末維新期の当主の松本節也とその妻のものですが、彼は文久元(1861)年から慶応元(1865)年まで宇摩郡(愛媛県四国中央市)にあった今治藩領の代官を務めています。
⑥半井家
| 半井梧菴の墓(遺髪・遺歯のみ葬る) |
半井家は、元々京都の出身で、代々藩医として今治藩に仕えた家です。
幕末維新期の当主である半井梧菴(忠見)は、藩医として天然痘の予防接種に当たる種痘の実施に尽力する反面、国学者・歴史学者・歌人としての顔も持つマルチな人物でした。
| 半井梧菴の著作「愛媛面影」(今治城蔵) |
特に梧庵は、明治2(1869)年、伊予国内の旧所名跡を調査してまとめた「愛媛面影」を出版した事でも有名です。
| 半井元章やその他の家族の墓 |
梧菴の墓の隣には、夭折した長男・元章やその他の家族の墓も並んでいます。
➆久松長世
| 久松長世の墓 |
久松家は、藩主一族であり、服部家以前に今治藩で筆頭家老を務めた家です。
同家の菩提寺は寺町の大雄寺ですが、幕末維新期の当主であった久松長世の墓のみここ海禅寺にあります。
長世は、洋式軍備を導入したり、第二次長州征討の中止を幕府の本営に意見する等、幕末今治藩の中心人物として活躍しました。
以上が、海禅寺に存在する今治藩士の墓の一部です。
特に江島為信や半井梧菴等、今治藩の中で重要な役割を果たした人物の墓が目立つのが特徴といえます。
これらの墓が点在する本堂裏手の墓所は、小高い丘になっており、かつては今治の町を見下ろせるようになっていた事でしょう。
今治城 伊津見
※久松家の菩提寺を「法華寺」としていましたが、正しくは「大雄寺」です。お詫びして
訂正いたします。(平成31年3月16日)
2019年2月2日土曜日
【展示案内】もっとも正確に描かれた今治城の絵図
こんにちは。
このブログの新しい試みとして、現在の展示品を少しずつ紹介していくコーナーを始めました。
初回に紹介するのは、
「もっとも正確に描かれた今治城の絵図」です。
「もっとも正確に描かれた今治城の絵図」です。
資料名は「安永八年今治城絵図」としています。
今治城が所蔵しています。
江戸時代以前は、現在の地図を作るような精密な測量技術が発達していなかったので、現在ほど正確な地図は作れませんでした。
そんな状況下で、当時の技術を駆使して、当時としては極めて正確に今治城が描かれています。
しかし、この絵図には、今治城の櫓も、城門も、そして立ち並んでいた建物も、立体的な姿は描かれていません。
描かれているのは、櫓や門の位置には桃色の四角形のみで、
では、何が「正確」なのかというと、白い四角形で描かれた屋敷地の、位置や大きさ、形なのです。
そして、城内に広がる全ての屋敷地を正確に描くため、城全体の形も正確に描かれたのです。
そして、城内に広がる全ての屋敷地を正確に描くため、城全体の形も正確に描かれたのです。
城内に並ぶたくさんの屋敷地の区画には、その一つ一つに、縦・横の長さとともに、人の名前が書きあげられています。
屋敷地をもらっていた今治藩の家臣の人たちです。
(昔の字で書かれているので、なかなか読むことが難しいですが、ご自身と同じ苗字など、読むことができる名前があるかもしれません)
| 家臣の屋敷地の描き方。 「上野」さん(中央右端)、「平野」さん(中央)、 「竹本」さん(左上、および右下)等の名前が確認できます。 |
この絵図は、城内にある家臣たちの屋敷の位置や大きさを正確に把握するために、今治藩が作成したものと考えられます。
(だから、敷地以外のものは絵図の主目的ではないため、簡単にしか描かれていないのです)
(だから、敷地以外のものは絵図の主目的ではないため、簡単にしか描かれていないのです)
この絵図からは、色々なことがわかります。
例えば、大きな屋敷ほど、城の中心部(殿様(藩主)の屋敷がありました)に近いところにいるか、または、城の中心に向かう道路沿いにあることがわかります。
別の史料によると、大きな屋敷を持つ人は、家臣団の中で上位の人たちで、今治藩の役職の中で重役についている人であることがわかっています。
家臣の中での地位の高さや、役職の重さに比例して、屋敷地の位置や大きさが決められていたことがわかります。
この他に、どんな特徴を見つけることができるでしょうか。
ぜひ、じっくり観察してみてください。
※この絵図の画像と解説は、今治城で販売している図録「よみがえる瀬戸内の名城 ―今治城絵図・古写真展―」(600円)に掲載されています。
今治城のホームページにて通信販売もしております。ホームページの「ミュージアムショップ」からお求めください。
※この絵図の画像と解説は、今治城で販売している図録「よみがえる瀬戸内の名城 ―今治城絵図・古写真展―」(600円)に掲載されています。
今治城のホームページにて通信販売もしております。ホームページの「ミュージアムショップ」からお求めください。
学芸員 藤本
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