2020年8月22日土曜日

お城の防御の工夫 その① (枡形虎口)


こんにちは。


こちら四国の今治は、朝夕過ごしやすい日が増えてまいりました。とはいえ、昼も夜も熱中症に注意しながら過ごす毎日です。

「暑さ寒さも彼岸まで」といわれるように、秋の彼岸(9月22日・秋分の日のころ)からあとは、少しずつ日が弱く短くなります。その頃になれば、夜は安眠できる涼しさになるかな、と楽しみです。



小学館出版『ひかりの暦』文・石井ゆかり 絵・松尾たいこ




先週8月15日は、戦争で亡くなった人々を追悼し平和を祈念する終戦記念日でした

ことしはコロナ禍に注目が集まっていることもあり、原爆の日(広島8月6日・長崎9日)もテレビや新聞報道が例年とは違うあつかいでした。

むかし「戦争を知らない子供たち」という歌がありました。(戦後25年の昭和45年・1970年大阪万博のイベントステージで歌うために作られました。当時はベトナム戦争の真っ最中で反戦運動が盛んでした。)今では戦争を知らない大人たちが増えつつあります。

せめて今月は、戦争体験者の方々の話に耳を傾け、戦争関係の記事や報道に触れたいと思います。

中央図書館でも戦後75年平和特別展示「16歳の戦車兵、イリサンの戦車特攻を振り返る」をしています。航空特攻や水中特攻は聞いたことがありましたが、戦車特攻のことは、まったく知りませんでした。





いつの世も、戦いは無常・・・です。

古代から人は戦ってきました。そのころの外敵から人と財産を守る軍事的な防御施設でした。それから時が過ぎ、城は少しずつ変化し続けてきました。


応仁の乱から後、戦いの絶えない戦国時代が始まり、は大きく進化します。

戦国時代前期の城は、自然の地形の険しい所をうまく利用して造られました。山城は断崖絶壁をいかし尾根や斜面には堀を設け、平城は川や沼や池などを天然の堀としました。

曲輪‥兵の駐屯地
土塁‥防御壁
堀切‥遮断線
切岸‥敵(人間だけではなく馬も)を登らせないように斜面地を人工的に急斜面地に削り込む

戦国時代後期の城は、城の出入口に設けた枡形虎口や馬出など、たくさんの防御の工夫を加えました。



KKベストセラーズ『歴史人』2017年5月号より


そして、安土・桃山時代(1500年代の終わりごろ)からのち、幅の広い堀と高い石垣が囲む近世の城が造られ始めました。経済力と技術力の発展により大規模な土木工事ができるようになったからです。

今治城は、ちょうどそのころ(1602年~)に築城されました。

今治城は戦場にならなかった城ですが、そこここに防御の工夫が見られます。きょうはその一つ、枡形虎口についてお伝えさせてください。





今治城に正面から入るには、お堀を横切る土橋を渡り、突き当りを右に折れ曲がって鉄御門(扉に黒い鉄板を貼り付けた門)をくぐります。










今治城には鉄御門の手前にもう一つの門、高麗門があったのですが、再建されていません。再現されていない高麗門の詳細は、2014年10月11日の今治城スタッフブログ「再建していない大事な城門」をご覧ください。


鉄御門の手前の道路にある灰色のペイントが、高麗門の両脇の石垣の跡です。






鉄御門の上の多聞櫓から下を見ると、高麗門両脇の石垣の跡の灰色のペイントがよくわかります。





今治城の枡形虎口は〈外側に高麗門〉〈内側に鉄御門〉と、二重に城門をこしらえました。そして、枡形の三方を囲った長屋状の櫓(多聞櫓:たもんやぐら)から、2つの城門に阻まれて身動きできなくなった敵兵を集中攻撃できるようにしました。

鉄御門・武具櫓内の中で、ビデオとパネルによって詳しく解説しています。












突き上げ窓の格子の間から下を見ると


こんなふう⇩




土橋を渡って攻め入ってくる敵兵がよく見えます。
集中攻撃、狙い撃ちもできそうです。

こちら側から下を見ると



こんなふう⇩




身を隠したまま、敵兵を狙い撃ちできます。





今治城にいらしたときは、今治城の築城技術の高さを実感していただければ、とおもいます。